この記事は個人ブログのこちらの記事とのクロスポストです:
今年、東京都美術館で大規模な展覧会が行われるブリューゲルの「バベル」。バベルの塔の住人は神の怒りを買い、話す言葉がバラバラになり意思の疎通ができなくなってしまった、という。
文意は読み手の頭の中でつくられている
四半世紀近く物を書き、情報を発信する仕事を続けた自分がたどり着いたのは「コミュニケーション不信」だった。
少し文章長めくらいで、懇切丁寧に説明しても意図が伝わらないことが多い。
逆に誤解が生じないように簡潔に削ぎ落とした文章でも伝わらない相手には伝わらない。
ソーシャルメディア時代になり、読んだ人の感想を目にする機会が増えたことでつくづく思い知らされたのは、文章の意図と言うのは書き手以上に読み手の頭の中でつくられるという現実だ。
世の中の半分くらいの人は文章を読む時、<a href="http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/17522439.2015.1028972?journalCode=rpsy20">頭の中で声に変換して読むそうだ</a>(私もその1人だ)。
ここでは実験として、普段、そうしない人も、次の文章を頭の中で、好みの明るい性格の女優さん(友達でもいい)の声を想像して読んで見てほしい
「元気そうね」
ここで一度、スイッチを切り替えて、下のまったく同じ文章を常にどこかにシニカルな雰囲気の漂う声で読み直してほしい(誰も思い当たらない人は美川憲一さんや泉谷しげるさんあたりを想像してもらうといいかも知れない)。
「元気そうね」
まったく同じ文字列が、読み手が明るいムードか暗いムード、頭の中でどっちの声で読んでいるかだけで、まったく印象が異なることが多い。
このように文字によるコミュニケーション成功の鍵の半分以上は、書き手ではなく、読み手の手中にある。
最近、文字だけでは伝わらない感情などを伝達する日本の携帯電話生まれの「絵文字」がMoMAの収蔵品になったが、何か象徴的なできごとのように感じた。
だが、絵文字が完全な解決策ではない。
よく知り信頼している相手による文章であれば自然と好意的な頭の声で読み好意的に受け止められるし、逆に疎んでいる相手、不信感を持っている相手が発した文章であれば、どこかネガティブなフィルターをかけて解釈してしまう。それが人間だと思う。
コミュニケーションのノイズ
難しいのは文字によるコミュニケーションだけではない。
声を使ったコミュニケーションにも難しさがあることを図で説明したい。
米国の大学に通うと「Communication 101」という必須科目がある。今でも強く印象に残るのは意思伝達に潜む多くのノイズ/障害がいかに多いかの話だ。英語のWikipediaにも項目があるが「Communication Noise」には主に「心理的ノイズ」、「環境的ノイズ」、「物理的ノイズ」、「セマンティック(意味的な)ノイズ」があると言われている。
簡単に図示をしてみても誰かの思いが相手に伝わるというのはもしかしたら奇跡なんじゃないかと思うくらいに障壁が多い。
例え話者が非常に卓越した言語力を持っていたとしても、そもそも1つ1つの語に対して持つ印象「語感」は人によって差異があるものだし、メッセージの発信者と受信者の頭の中で同じイメージの複製が行われることは皆無といってもいいだろう。
さて、上の図の多くは、文字によるコミュニケーションにも当てはまるものだが、私が特に致命的と思っているのが「そもそもの解釈の失敗」という部分だ。
一卵性双生児でも、生まれた瞬間から異なる体験の蓄積が待っている。人々の価値観というものが体験の蓄積で醸成されるのだとしたら、価値観は一人一人皆、異なっているはずだ。
そして価値観が異なれば、同じ物やアイディアに対しても、それをどのアングルから眺め、どう切り取って言語化するかの手法も異なる。
同様にメッセージの受信者も、万が一、すべての障壁を乗り越えて「卓越した能力で言語化」したメッセージを間違いなく受信したとしても、それを解釈し、頭の中のイメージに落とし込むに当たっては、それまでの経験や知識の影響を大きく受ける。
ずっと会話が成り立っていると思っていたのに「え!〜〜の話だったの?〜〜の話だと思っていた」というのはよくあるできごとだ。
TwitterやFacebookなどへの書き込みに対しても、想像もしなかったアングルの脈絡のない返答がきて「この人はどういう思い、どんな認識で、この返信をしてきたのだろう」と悩むことも多い。
Web 2.0で何が変わったのか
それでも20世紀のマスメディアは、多くの人にその意図を伝え、新しい文化を生み出すことも少なくなかった。これら旧来型マスメディアがうまくいっていた一因は、20世紀メディアの多くが受け手が自分の価値感にあうものを吟味してチューン・イン(選択)をする特性があったからではないか。
視聴者や読者は、情報に触れる前に、ある程度、ふるい分けが行われていた。
例えば同じiPodのレビューでも、ファッション誌なら形や色についてしか触れなくても「技術的考察が少ない」と怒る読者もいなかった(そもそも怒るような読者はファッション誌を買っていなかったり、ファッション誌を読む間だけは頭を切り替えていた)。逆に技術雑誌のレビューに見た目や触り心地を無視していると憤慨する人も少なかった。スポーツ新聞の記事を読んで「ふざけている」と憤慨する人もいなければ、特定のイデオロギーに基づいた本を買って自分のイデオロギーと違うと怒る人もあまりいなかったはずだ。
テレビ番組も、ラジオ番組も、雑誌も、それぞれが世界観であったり共通の価値観を持っていて、門をくぐるという通過儀礼、つまりチャンネルを合わせたり、書店で購入した後は、読者もその価値体型の中で内容に触れていた。
おそらくこれはインターネットが広まり始めてからもしばらくは同様で、ブログが広まり始めたくらいも同様だったかも知れない。
変わったのは、「Web 2.0」というバズワードと共に、ソーシャルメディアが普及してからだと思う。
「Web 2.0」で、それまでの読むだけだった人たちがコメント欄であったり、ソーシャルメディアで情報を発信する側になったことも大きいが、それ以上にソーシャルメディアの普及でコンテンツがバラバラに分解されたことの方が大きいように思う。
人々は面白いニュースをTwitterやFacebookで発見し、トップページを素通りしていきなり目当ての記事に飛び、そのままトップページや他の記事を見向くこともなくTwitterやFacebookに戻っていく時代が始まった。
デジタル技術が音楽アルバムを曲単位の販売に分解したように、Webニュースサイトというコンテンツは解体され、その中のコンテント、つまり個別のニュースが直接アクセスの対象になった。
ソーシャルメディアの投稿やRSSフィードから、1クリック0円とわずか数秒の移動時間で、自分とまったく異なる価値観のコンテントにも首をつっこめてしまう。
コンテントを価値観の合わない人たちとの接触からかくまっていた、コンテンツとしての世界観や価値観の壁が崩落した。
反論?ヘイト?
Web 2.0の時代でも成熟し経験を積んだ受け手であれば、自分と合わないコンテントは「自分とは合わない」からと流して相手にすることはなかっただろう。
一方で、日頃、多様な価値観に触れる機会を持たない人たちは、インターネットの自分にとって都合のいい情報、都合のいい価値観だけを引き寄せやすい特性で原理主義に走り、コンテンツのボーダーを越境して、自分と違う価値観叩きに走り始めている。
さらにそのうち時間を持て余した人々は、わざわざコンテンツのボーダーを超えて、自分と意見が合わない人を探し出しては、そこにクビを突っ込んで嫌悪感を披露するという行為を繰り返している。
こうした傾向は、特定の領域を偏愛するフェティッシュな人に多い。洋の東西を問わず、特定の領域を偏愛する人には、自分のその領域にかける情熱をその領域に対する知識の量であったり、自分の見立てで相手を論破することで示す人が多い(米国のコメディドラマ「ビッグバンセオリー」などで描写されている登場人物を見ても米国のオタクな人たちにもそうした性向があることがよくわかる)。
もっとも、そうした違う価値観のマニアックな人たちが自分たちの見立てで何を語ろうとも、論評はその人の自由だし、「自分とは合わない」見方であればそれを流せば済むことなのだが、中には自分の嫌悪であったり憎悪をわざわざ伝えたくてしょうがなくてソーシャルメディア上などで執拗に、その人の価値観を送り続けてくる人がいる。
これが前の記事でも書いた「over-connected(接続過多)」時代の弊害の一つだ。
もちろん、こうした人たちはWeb 2.0時代の前にもいたと思う。
私はどちらかというと、そうを広げるべく初心者向けに分かりやすい記事を書くことを重視している。一度、アップルの企業文化を、iPod以降でアップルに興味を持った人向けに新書でわかりやすく書いた本を出した。アップル界隈には昔からのマニアックなファンも多いので、そうした人たちが間違って購入してガッカリしないように「まえがき」で「この本は初心者向けで、古くからのアップルファンが新たに得る情報はあまりない」と正直に断りを入れて出版した。しかし、Amazonで真っ先に書かれた書評は「知っている内容ばかりだった」というマニアックなアップルファンのものだった。
Web 2.0時代の今日、人は自分と価値観の合わないコンテントにもリンクをクリックして簡単にアクセスできれば、さらには自分と価値観の合わない人にも簡単にアクセスして自分のHATEを伝えることができ、中にはそうしたことに異様に執着している人もいる(例えばツイッターでは、自分の嫌いな個人であったり、企業を攻撃するためだけに、相手の名前をアカウント名につけているようなアカウントも存在する。どうせなら人生の時間を自分が好きなことのために費やせばいいのに、毎日毎日、わざわざ嫌いなもののために大量の時間を割く人たちだ)。
そのおかげで、アナログ時代には目にする必要もなかったhateがより可視化されてしまったのが現在の情報発信の特性だ。
もちろん、中には言葉遣いが汚いだけで、参考になる意見もあるので、悪いことばかりではない。
ただ、ソーシャルメディア上では、中身もろくに読まずに、ただいいがかりをつけているだけのような書き込みも多い。
こんな時代に情報発信をする人は、何を言われても気にしないタフなハートを持つか、ただのいいがかりを言ってくる人たちを「この人たちは何でこんな風になってしまったんだろう」と同情して受け流す度量が必要だ(実際、多様な人と接する機会に恵まれていない可能性が大きい)。
そもそも言いがかりをつけたいだけの相手は、相手にするとさらに言いがかりの量が増え、しかも、その人のhateを不要に拡散して周りの人たちにも嫌な思いをさせることになるので「無視」がいちばんの得策だ。ただし、中には言葉は汚いが、本質をついた参考になる意見を言う人もいる。両者は、いったいどうしたら見分けられるのか。
例えばツイッターでのネガティブ意見であれば、1つ有効な手段は、その人のアカウントのページを開き、普段、どんなことをツイートしているのかを、少し遡って見てみることだ。
無視してもいいような言いがかりの相手は、1日の大半のツイートが誰かへのいいがかりになっている。こう言う人は相手にしてもラチがあかない。
一方、建設的な意見やポジティブな意見も言っている人であれば、その人の意見は今後の自分の参考になることがある。誠実に応えてみると、そこから得るものがさらに大きいかも知れない。
情報の大量生産、大量消費、大量廃棄
「反論」には慣れで対処できる部分も大きい。
だが、それ以上に「書いて情報を発信する」行為を無益に感じさせるのは、今日の情報の消費行動のあり方だ。
ソーシャルメディア全盛になる少し前の2006年に総務省が面白い統計を発表した(2006年はTwitterが米国で誕生したものの、まだ一般にはほとんど知られていなかった年。iPhone登場の前の年)。
Windows 95が登場し、インターネットが一般に向け普及し始めた1995年から2006年までの11年の間に、我々が1日に触れる情報の量が637倍に増えたと言う。
残念ながらこの統計はその後、アップデートされていないが、この後にソーシャルメディアが登場したことで、情報量が指数関数的に増えたことは火を見ることよりも明らかだ。
人間の脳の情報処理能力が劇的に向上するとは思えない。つまり、20世紀、情報に飢え、目的の情報のために図書館に足を運んだり、高いお金を払っていた我々は、今日では常に多くの情報と対峙し短時間で取捨選択を行ない。大量の情報を捨てて、獲得することを決めた情報も短時間で消費してしまっているのではないだろうか。
自分の実感でも、20世紀には「人の噂も七十五日」と言われたが、現在のソーシTwitter上の噂は持ったとして半日という印象がある(もっとも、メディアによって情報の滞空時間には違いがあり、基本的に情報の投稿頻度に反比例している。Twitterは他のソーシャルメディアと比べても圧倒的に情報の消費が早いリアルタイムメディアだ)。
情報がこれだけ大量に生産され、廃棄されているにも関わらず、商業メディアも、個人メディアも「PV(ページビュー)」という指標を追うあまり、今なお頻繁な更新に力を注ぎ、情報を増やす方ばかりに力を入れ、インターネット上では複製とノイズばかりが蔓延し、本当に人々の視点を変え、人生に影響を与えるような価値を持つ情報はどんどん少なくなってきている。
今、こんなインターネットに骨を折って情報を投入することは、渾身の作品を見渡す限りのゴミが積まれたゴミ処理場に投げ入れるようなものだ。
もちろん、そうは言っても、これまでの積み上げで、その作品を他の方のそれよりは少し目立たせるための道筋を持っている。
そして、たまにちゃんと価値観を共有できる人からの嬉しい言葉がもらえるからこそ、なんとか頑張る気にもなれる。ただ、賛同してくれていても的外れなものは「コミュニケーションへの失望」を増長させるし、的外れなhateは徒労感を強く感じさせる。
執筆による情報発信は、かなり割りの合わない仕事にしか思えない。
NEXT INTERNETに期待!?
1つ希望を感じるのは、今、インターネットが大きな曲がり角を迎えていること。
「インターネットの次」がそこかしこで話題になり始め、BREXITやトランプのようなネットの民意を反映しない現実の台頭も度々、目の当たりにする。
インターネットが今のままでは成長を続けられない、と思うほころびがそこかしこに見える。
「止めどのない情報増産」と「OVER CONNECTED(接続過多)」の限界の先に、どんな「NEXT INTERNET」が誕生するのかは、まだまだ計り知れない。だが、もし、本当にそうしたものが登場するのであれば「どこかに人間そのものを成長させるしくみ」を盛り込んで欲しいと思う。
今のインターネットはその逆で、資本主義の原則で成長して、人々を安易な方向に流し、世のメディアを総スポーツ新聞化する方向に進化してしまった。
「NEXT INTERNET」は資本主義の原理原則に一度、目を閉じ、より大きな大義を基盤に作っていく必要があるのではなかろうか…
情報よりもインスピレーションを与える存在になりたい。
— Nobi Hayashi 林信行 (@nobi) December 26, 2016
情報には新旧や正誤、伝播力の有無に関わらず消費されてしまうものだが、インスピレーションはその人の血肉となって受け手に残る。