COVID-19からの学び1:無駄こそが大事
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つくらない都市計画というイベントで色々な人とZoomオンライン対談をした。写真はロジェ・ヴィヴィエのデザイナー、ゲラルド・フェローニ氏とマドモアゼル・ユリアを招いてのトーク。フェローニ氏は「イタリアは日本と違ってIT化が遅れている」と言われ「日本も同じ」と答える場面があった。上の画像をクリックで対談が見られます。

www.youtube.com

コロナ禍で起きた、かつてみないスピードのデジタル化

コロナ禍、英語圏でこんなツイートが流行った。

実際、COVID-19(新型コロナウィルス)による外出自粛が広がる中、Zoomなどのソフトを使ったビデオ会議が、世界中に一気に広がった。
 ちょっと前までITが苦手そうだった人まで「次回のミーティングはこちらで」と慣れた様子でZoomミーティングのURLとパスワードを送ってくる様子に何度か驚かされた。
 私もイタリアでお城のような家に住むファッションデザイナーから、ボストンに住むテクノロジー系アーティスト、京都の庭づくりの職人、百貨店の店員まで幅広い人とZoomでトーク番組やミーティング、飲み会などを行なった。
 パソコンそのものの普及や、インターネットの利用、ソーシャルメディア、スマートフォンなど、さまざまなデジタルテクノロジーが世の中に浸透する様子を目の当たりにしてきたが、ニーズに駆られて広がったこの4〜5ヶ月のビデオ会議に勝るスピードのデジタル化(デジタルトランスフォメーション)は見たことがない気がする。
 しかし、それに合わせてさまざまな問題も生じている。
 特に「Zoom疲れ」などと呼ばれている心理的ストレスの問題を耳にすることが増えてきた。
 これは十分に予見できたことで、私もMacFanという雑誌の3月末発売号のコラムでもこれを予言していた。
 でも、もしかしたらデジタルツールに慣れ親しんでいるデジタルネイティブの世代は、感じ方が違う部分もあるのかも知れない、と思っていたが、先週、急速なデジタル化はデジタルネイティブに取ってもストレスの大きなできごとだと知る機会があった。
 金沢美術工芸大学での遠隔授業だ。私は河崎圭吾教諭の誘いで2019年度より同学の客員教授として年に1〜2回の講義を行なっているが、先週、約1年ぶりの講義をZoomで行ったのだ。

学校オンライン化がもたらす心理的負担

 1年に1回の頻度では、生徒の素性や能力、関心事も知らないままで、普通に講義をしてしまうと、どんな生徒かもわからずに一方的に講義する形になってしまう。そこで授業に先立って提出してもらう事前課題を用意した。
 どうせならテクノロジーの精通度や、どんな考えや価値観を持っているかや、そしてコロナ禍にどんなことに困っているかを知りたかったこともあり、「外出自粛をつづけながら、より良い学びを可能にするシステムの提案」をテーマにした。
 たくさんの興味深く示唆に富んだ提案があった。優秀な提案も多かったので、興味のある企業にはヒアリングでもしてもらいたい。これまでもスカパーなどいくつもの大企業とプロジェクトを進めてきた学生たちなので、詳細の発信は学生たち本人に任せたい。
 だが大まかに分類すると、以下の2つの提案が多かった。

(1)雑音を排除したコミュニケーションが生み出す不快さ
(2)隙間時間をなくしたことが生み出す不自由さ

(1)は、私もMacFanのコラムで指摘した点だ。デジタルツールの多くは、効率化重視でつくられていて、それ故に使う側も効率を重視してしまいがちだ。
 コミュニケーションツールの、ビデオ会議では、実際には世界各地に散らばって離れ離れにいる人たちが、やや至近すぎるくらいの距離でお互いの顔を正面から覗き込むようにしてコミュニケーションをすることを前提につくられている。話している人の声は、相手との距離に関係なく均等な音量で届く。小さな雑音も均等な音量で届くので、人数が少しでも多くなっていると、誰かが話をしている間は他の人はミュートにして一切の物音を発せず聞き役に徹するといった形での話し合いになることが多い。
 話す側は相槌や笑い声といった反応もない中、相手が本当に聞いてくれているのかもわからない不安にかられながら暗中模索でひとしきり話しては、他の人に話を振るスタイルだ。これは教員だけでなく、聞いている側の生徒も疲れる。
 課題では聞いている人たちのリアルタイムの反応を話者に返すための仕組みの提案であったり、例えば隣の席の人や、同じ班の人の授業中の私語が聞こえてくる実際の教室のような空間的概念を取り入れる提案が目立った。
これもまさに私がMacFanのコラムで指摘していたものだが、他の多くの人も、同様のフラストレーションを感じているのだろう。最近、周囲を見渡してみても、そういった試みを目にすることが多い。
 例えば<a href="https://spatial.chat">spatial.chat</a>というロシアのサービス。これはまさに画面上に仮想空間をつくっては利用者をアイコンとして表示。自分のアイコンを動画や他の人のアイコンに近づけると、近づいた動画や人たちの声は聞こえやすくなるが、それまで聞こえていた動画や人たちの話し声は音が小さくなり、現実世界のような音の空間が再現されている。
 ライゾマティクスも、緊急事態宣言中、毎週金曜日に開催していたイベントの後で、同様の音空間を使った実験を行なっていた(Twitchというサービスを基盤にして独自に開発。そこで真鍋大度さんがDJをしていた)。
 「授業中の私語」など、先生によっては言語道断で、まったく無駄なもののように思えるが、学生たちがリラックスした気持ちで授業を楽しむには、実はこうした無駄や遊びの部分があることこそが大事なのかも知れない。
 (2)の「隙間」というのも、まさにそうした無駄の話だ。ある生徒は、ZOOMでの授業だと、朝起きてベッドの目の前のパソコンの電源を入れたら、もう教室にいる。これだと授業に向けての気持ちの切り替えができない、と指摘していた。通学時間であったり、学校についてから廊下などを歩く移動時間。これもまったく無駄なようでいて、そこでしばらく会っていない友達とのセレンディピティが起きていたり、部活の話をしたり、気分の切り替えなどが行えていた。
 しかし、仕事や学校生活が効率一辺倒でつくられたデジタルツールで置き換えられたことによって、そうした本来大事だった「無駄」が突然、切り捨てられたのだ。

Rhizomatiksによるオンラインで空間を再現したSocial Distancing Communication Platform

rhizomatiks.com

無駄こそが大事

 今のデジタルツールの多くは、こうした「身体性」をまったく考慮せずに、ただ「用を成す」こと、仕様書に列挙された機能を提供することだけを念頭に作られていることが多い。
 「効果的」、「効率的」、「機能的」かつ「実用的」であることに「最適化」はされているが、使う人の気持ちへの思いやりが少ない。
 心地よかったり、高揚感をもたらしたり、ポジティブな議論を促したりとかそういうものがない。
 ヒトとコンピューターではつくりが違う。
 ヒトは休みなく情報の洪水を浴びれば疲れてしまう。また次の仕事、次の勉強への切り替えに時間がかかる人もいる。デジタルコミュニケーションでも、会議でも全員と目を付き合わせて行うのでは疲れてしまうのでよそ見をするくらいの遊びも必要だし、あいづちや私語といった雑音も必要だ。
 多くの人がデジタル漬けになることで、今、改めて、こうした「無駄」と見なされていたことが大事だったかと実感した人も多いはずだ。
 奇しくも、私は昨年のカナビ(金沢美術工芸大学)でも、「これから無駄がいかに大事になるか」という話をしていた。
 3時間以上の講義の内容は多岐にわたったが、扱った中心テーマの一つはAI時代をどう捉えるかだ。AIが、人間を上回る能力で物事を認識し、処理してくれるAI全盛時代、人がそれに対抗しようとしても意味はなくなる。
 そんな時代の人間において求められるのが「無駄」を作り出すことではないかという話をさせてもらった。
 それまで多くの人にとって
 それまで多くの人が関心を持っていなかった地を探究して新しい「価値」を発見するマルコ・ポーロのような探究型、あるいはそれまで価値のなかった物事に、新たな価値を見出し宇宙のように広い世界をつくりだす千利休のように新しい価値を定義する価値創造型。
 特に後者は、少なくともAIが人間の道具である間は、出てこない利用法だろうし、そもそも自分と同じmortal(モルタル=いずれは死ぬ)である人間が定義した価値だからこそ、他の人も共感できると思う。
 人を魅了する奥深いストーリーづくり、世界観づくり、そして審美眼、こういったものこそが、少し未来、他の人々の共感を伴って、そもそもどのような価値観から生まれAI技術を採用するのか、といった選択にも関わってくるのではないかと思っている。
 インターネットやソーシャルメディアの広がりは「共感」や「反感」といった心理であったり、そもそもの「人と人のつながり」など極めて人間的な部分を増幅してきた、というと身に覚えがある人も多いのではないだろうか。
 デジタルツールが進歩して、人の生活の中で大きな役割を担えば担うほど、実はそれを使う人の「人間的な部分」こそが重要になる。
 「生人間力(なまにんげんりょく)」というのはeatKanazawaというイベントで中島信也さんが放った、なんとも力強い言葉だが、これからの時代はまさにそれが重要であり、そうした「生人間力」を増強するための道具は、人の身体性を考慮したものでなければいけないと考えている。

佐賀県立美術館 「吉岡徳仁 ガラスの茶室 - 光庵 」展でのお点前パフォーマンス

saga-museum.jp

人に馴染む道具は、テクノロジーだけでは生み出せない

もし、世界的にも成功しているアップル社の製品が、そうした手に馴染む道具であることに共感する人が多いのなら、きっとそこに学びがあるはずだ(もちろん、すべての人が1つの価値観になびくことはなく、それだから世界は面白い)。
 そうやって振り返ってみると、アップルの製品づくりは、初代Macを開発している時から、利用者の視点を持ち込んでくれるデザイナーだったり、心理学者や文化人類学者といった人も巻き込んで、極めて奥の深いディスカッションを積み重ねてつくられてきた。
 初代Macをつくった時、アップルは、ただマウスを使って操作するコンピューターをつくっただけではなく、そういうコンピューターのためのアプリはどのようにしてつくられ、どう売られ、どう使われるべきかといったことまで、きっちりと議論をして、Human Interface Guidelineというガイドラインにまとめている(iPhoneも同じで、同様のガイドラインがつくられている)。
 Macの何年も後に、表層だけを真似してでてきたマウス操作環境では、例えばアプリによって「OK」ボタンと「キャンセル」ボタンの並びが左右逆になっていたりといったチグハグさがよく見られたが、Macではそうしたことがなく一貫した使いやすさを提供していた。
 ウィンドウの角が丸みを帯びていることも、メニューが常に上に表示されていることにも、目に入るすべてが膨大な量のディスカッションの結論であり、しっかりと説明できる理由があった。
 有益なディスカッションのいくつかは、今では絶版になってしまっているが、ブレンダ・ローレル氏が編纂した書籍「人間のためのコンピューター /インターフェースの発想と展開」にまとめられている。
 だが、今、我々が日常的に使っているデジタルツール(アプリなど)をつくる人の多くは、そうしたことを学ぶこともなく開発をしている。中にはビジネス書や雑誌などに、アプリ開発が仕事として旬だからとか、儲かるからとはやしたてられ、手っ取り早く学べる本と、手っ取り早く学べるスクールで学んだ、という人も少なからずいるかも知れない。
 もちろん、きっかけがそうであっても、ユーザーの気持ちを察したり、感じたりしようという姿勢からユーザーに配慮した開発をしている人もいるかも知れない。そういう人は個人的に応援したい。
 ただ一方で、ただ「用を成す」だけのアプリでいいじゃないかという人も、それなりにいることだろうと思う。実際、世の中には、ただ用を成せばそれで満足で、使い勝手を向上させる工夫などは余計だという考え方の人たちも少なからずいる。ここは二十年以上色々な人と議論を重ねてきた経験から語ると、交わらない線で、人によって価値観も違えば、仕事の内容も、考える姿勢や方法も千差万別だ。ニューロダイバーシティーという言葉もある(神経多様性または脳の多様性などとも訳される)。
 求めるものは多様であってもいいが、これまでのデジタルツールの多くが、作る人も、それを評する人も、機能/効率/スペック側の人たち側への偏りが多かったように感じている。
 ビデオ会議が、デジタル音痴の人も当たり前に使うようになってきた今、もう少し、そういった「デジタル苦手」な人たちも「使いにくいものや不快なもの」には、どうしてそう感じているか、どうなったらよくなりそうかも考えた上で声をあげて欲しい。
 ツールをつくるエンジニアの多くは、課題解決を生業としており、気づいていない課題は解決できないが、認知した課題に対しては高い解決能力を示す人も多い。

人間のためのコンピューター
インターフェースの発想と展開
ブランダ・ローレル編/上條史彦、小嶋隆一、白井靖人、安村通晃、山本和明ー訳
株式会社 星雲社(1994/10)

amzn.to

 最後に、ここ4〜5年の私を振り返ると、あまり仕事もせずにふらふらと遊びあるいていることが多かったが、これもまさに「次の時代は無駄こそが大事」という嗅覚がどこかで働いていたかも知れない。
 「昨日の仕事のつづき」に追われる毎日からは、何の進歩も豊かさも生み出さない。
 人は、仕事に追われる毎日から解放され、何か他の新しいものに目を向け探求する「余裕(=無駄)」があってこそ、真に豊かさを生み出せるのではないか。実際、人々の気持ちを豊にする多くの文化は、そうした「余裕」からこそ生まれてきたのではないか、という思いが強まっている。

そう考えると、この4〜5年は、無駄であって無駄ではないと強く思った。
いや、無駄か無駄でないかは、実はそれを受け止める心持ち次第の問題のような気もしている。

これからも適度な「無駄」のバランスの模索を続けたいと思う。

COVID-19からのBuild Back Better
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2020年春、桜の時期でも桜並木沿いの多くの店がシャッターをおろしていた

戻るべきはどの世界?

“Build Back Better”という言葉がある。

私は東日本大震災の直後に知った。

大きな自然災害で破壊された街の復興。

元の通りに戻さねばと考える人が多い。

でも、そうではなく「前よりも良い状態にする」のがBuild Back Betterだ。

災害への備えの点でbetterという意味で使われることが多い。

ただ、もう少し拡張して、そもそも問題を抱えていた街を、カタストロフィーを1つのリセットボタンと考えて、もっと良い状態で再創造するという意味にも使えないだろうか。東日本大震災の多くの被災地も、震災前、既に経済の落ち込みや過疎化といった問題を抱え、先行きのない状態に陥っており、膨大な時間と労力をかけて未来のないままの街に戻すことは無意味だと多くの人が議論していた。

同じことは、今年に入ってから人類を襲った新型コロナウィルス感染症(COVID-19)のパンデミックに対しても言うことができる。

OVID-19が牙をむく前、世界では気候変動による大規模災害が大きな関心事で、世界の若者たちが対策の必要性を訴え立ち上がっていた。

だが、パンデミックで、世界中の大都市が、経済活動の自粛をしたことで、今、地球上の大気はここしばらくなかった水準で浄化されている。3月時点で、二酸化炭素の排出量が中国だけで2億トン減少(25%)、4月時点でPM2.5の量がインドのニューデリーで60%、韓国のソウルで54%減になったという。ヴェネツィアの水もかつてない透明度を取り戻したと話題になっている。

ここで我々に突き付けられるのが次の問いだ:

「もし、ワクチンなどが開発され、COVID-19の流行が抑えられたら、我々は膨大なCO2を排出し、大気を汚しまくっていた経済活動に本当に戻って良いのか」

まだ査読中のものが多いが、大気汚染とCOVID-19の関連性を調査した論文が増えている。イタリアのボローニャ大学では、大気汚染の原因粒子にのってCOVID-19が拡散していた可能性を指摘している(__https://www.theguardian.com/environment/2020/apr/24/coronavirus-detected-particles-air-pollution__
)。一方、米ハーバード公衆衛生大学院(HSPH)の研究チームも大気汚染と感染致死率の関連性を指摘している。

そもそも昨今の感染症の多くは人間が自然を破壊し、不幸な動物たちの交わりが起きたことが原因というのが、COVID-19禍で大きな注目を集めた感染症映画「コンテイジョン」のラストシーンの示唆であり、アップル社のThink Differentキャンペーンにも登場した霊長類学者ジェーン・グドールの主張だ。

 この数ヶ月の経済的ダメージを考えると、今は緊急事態で「もはや環境のことなど考えている余裕もない」という人も少なくないだろう。しかし、そうやって元の活動に戻ってしまったら、そこから一体どうやって将来の「環境改善」に取り組むというのだろう。

こうしたことを踏まえ、我々はどのように経済活動を再開していくのか。

日本はイタリアに比べたら空気がきれいだし、我々には関係ない?では、日本人でなく、イタリア人にはなんと勧める?あなたたちも、これまで通りの経済活動に戻りなさい?

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経済活動再開、その進路は?

COVID-19のパンデミックがもたらしたのは環境の変化だけではない。

日本の社会にも、もはや不可逆となりそうな変化をいくつももたらしている。

改めてパンデミック前後の世の中の変化を振り返ってみよう。

日本では常に東京一極集中が問題とされてきたが、変化をまっさきに求められたのは東京などの大都市で、この後も地方都市から先に緊急事態宣言が緩和され、東京などの大都市だけつづく可能性が高い。

そんな東京。オリンピックでの交通混雑を解消するのに必要だと言われていたにも関わらず、なかなか広がらなかったテレワーク(リモートワーク)。これがCOVID-19による外出自粛で、一気に普及した。

テレワークで、大きな障壁となっていた印鑑の利用もIT担当相の失言が最後のひと押しとなり一気に進むことになった。

こうやって家で働くことが増えれば、自然と裁量労働制へのシフトが進む。

過労による自殺などが話題となり「働きかた改革」の重要性が訴えられていたが、政府が主導していた働き手のモチベーションを無視した就業時間だけで規定する雑な「働きかた改革」よりもよほど本質的な働きかた改革になる。

同時に女性にとって働きやすい仕事環境の整備にも追い風になるはずだ。

就労に関する問題といえば、都知事が公約しつつも、なかなか解決できずにいた東京の満員電車の問題も、COVID-19流行によるオフピーク通勤やテレワークで、いとも簡単に解消されてしまった。お勤めの方々は、これだけ長く平穏を味わった後で、本当にあの人を人とも思わぬ劣悪環境に戻ることができるのだろうか。

皆、どこかで答えはわかっているはずだ。

しかし、ネットで実際に経済活動を再開しようとしている人たちの声やアクションに目を向けてみると、必ずしもその方向性は合致していない。

我々の頭の中にある「仕事のイメージ」は、多くの問題をはらんだままの昨年までの仕事のやり方のイメージだ。

そもそも会社の組織構造であったり、収益源/ビジネスモデルであったり、想定している顧客であったり、収益目標であったりも、昨年のままである。

これまでずっと「一度、立ち止まって本当にこのままでいいのか話し合う必要がある」。

おそらくすべての業界に、そういう声をあげる人はいた。

今、人類は、まさにその立ち止まり、話し合うべき機会を半ば強制的に与えられている。

しかし、中国はそれをしないまま、経済活動の再開への一歩を踏み出し、その立場を利用して世界中で先行者利益の獲得をしようと営業活動を活性化している。

アメリカやヨーロッパも、それに続こうとしている。

と、なれば資本主義の競争からこぼれ落ちないためにも、早実、日本も同じ道をたどり始めるだろう。

そして人類は、再び昨年までの世界に戻っていく。次の大規模災害までの束の間…

おそらく数年間に3度くらい連続でこの規模の災害に見舞われないと、人類はその姿勢を正さないのではないかというあきらめをどこかで感じる。

しかし、それはなぜだろう?と問いただすと、より根源的な問題が見えてくる。

資本主義を軌道修正する

この日本で1Kmほど先の真北に置かれた標的に向かって大砲の砲弾を撃つと、実際には標的よりもわずかに右へずれるそうだ。地球の自転によって生じる「コリオリの力」の影響だ。自転という、我々の知覚できない力が、トイレでできる渦巻から、海流、台風の進路にまで影響を与えている。

同様に我々の「経済活動」にも、日常生活の中ではそれほど意識しない、近くしにくい力が、大きな影響を与えている。

そう「資本主義」だ。

資本主義のすべてが悪いわけではなく、我々の文明の大きな進展は「資本主義」なくしては起きなかったかも知れない。

だが、資本主義に加え続けられた小さな改造(改良とは呼びたくない)によって、向かう先の角度にも修正がかかり、「豊かな未来」から「断崖絶壁」への進路修正が行われたように思える。

四半期ごとに右肩上がりの「成長」を求め、廃棄を前提で大量にものをつくる世の中。

モノも

この悪の軌道修正に、特に大きな影響を及ぼしたのは「金融資本主義」だろう。

いや、その前段階、20世紀に始まった行き過ぎた大量生産大量消費も大きな引き金の一つだろう。

今回のパンデミック後に驚いたことの一つが、牛乳の問題だ。

学校が休校になったから牛乳が大量にあまり始めており、消費をしなければならない、と古代のメニューなどが掘り起こされ話題になった。

牛乳に限らず、大量生産大量消費の世の中では、例え人類が立ち止まらざるを得ない危機的な状況においても、原子炉同様に簡単には止めることのできないものが意外に多い。

パソコンやスマートフォンの頭脳、マイクロプロセッサで、最近、性能以上に重視されることが増えたのが省電力設計だ。

昨今のマイクロプロセッサーは1つのプロセッサーの中に、実は小さな頭脳が複数内蔵されている設計が多いが、パフォーマンスが必要な時は、すべての頭脳を活動させるが、平常時はいくつかの頭脳の活動を停止させ、電力供給を抑えてバッテリー動作時間を長持ちさせる。

だが、我々が大量生産大量消費でつくりあげてきた世の中のしくみには、需要と供給の変化に合わせて柔軟にコントロールできず、常に一定以上の需要があることを前提にエネルギーを消費し続ける設計のものが少なくない。

こうした大量生産の資本主義を前提につくられた目標や商習慣、ビジネスのしくみを内包したまま経済活動を復活させても、われわれは遠からず、今と同じ状況を繰り返してしまう。

各国が「資本主義経済」の価値観への呪縛から、今月にも本格化させようとしている経済活動の再開。もしかしたら、感染拡大の再爆発もあるかも知れないと思いつつ、幸運にもそうならなかったとしよう(他国との交易は支障を抱えたままだし、完全に元に戻るのはまだまだ先だと思うが)。

 その時、どこかで、コロナ禍の外出自粛時に覚えた肌感覚を思い出して、自分の携わる仕事だったり、業界だったりが、もっと地球に対しても健全なものになるためにはどうしたらよいかを考え続け、それを社会全体のビジネス習慣を軌道修正するコリオリの力とする。

もしかしたら、これがBuild Back Betterへの遠回りだが堅実な第一歩かも知れない。

去年までの世界の多くは、まだ人々もテクノロジーも未熟な20世紀中頃、人々が世界大戦からBuild Back Betterする中で築かれてきた。

 だが、今ならもっとうまく需要と供給をマッチングするテクノロジーもあれば、人々も無考えの大量生産による環境破壊が、巡り巡って自分に被害を及ぼすことも学んでいる。

少なくとも私は、そう信じたい。

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P.S.ちなみに本文中で触れ損ねてしまいましたが、「Build Back Better」、日本語では「創造的復興」という訳がついていますよね。なかなかの名訳だと思います。


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ジョブズ愛用腕時計の復刻
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故スティーブ・ジョブズの誕生日に合わせるようにアップル社は同社の新本社の名前「Apple Park」を発表した。
そしてその少し前、日本のSEIKOとナノ・ユニバースは1982年に発表されたロングセラーの腕時計「セイコー・シャリオ」の復刻を発表。3月から本数限定での発売となる。

もう35年も前の時計ではあるが、実は若い人たちの目にも触れている可能性が高い。
なぜならウォルター・アイザックソンによる故スティーブ・ジョブズの評伝のハードカバー版の背表紙でジョブズが身につけているのがまさにこの時計だからだ。この時計はジョブズにとってかなりお気に入りだったようでGoogleで「Steve Jobs 1983」、「Steve Jobs 1984」といったキーワードで検索をすると、かなりの確率でこの時計を身につけている写真を見つけることができる。実際にジョブズの人生におけるターニングポイントでもある1984年1月の初代Macintoshの発表会の時に身につけていたのもこの時計だ。

日本版のハードカバーでは少々、写真が小さくなっているので英語版のカバー

この一時代を感じさせる腕時計が昨年、突然、脚光を浴びた。なんとジョブズの所有していた腕時計がオークションで販売されシンプルなクオーツウォッチとしては破格の$42,500(480万円)で落札されたのだ。

今となっては誰もジョブズがどのような経緯で、この腕時計を手に入れたのかはわからない。
ただ、「セイコーシャリオ」は海外で発売されていた時計ではないので、ジョブズは何かでこの時計を知って誰かに買ってきてもらったか(そこまでする可能性は低いだろう)、さもなければ日本を訪問した時に自分で購入したのだろう。
後者の可能性は極めて高い。なぜなら、1982〜3年頃と言えば、ジョブズはMacの開発に関係して日本を頻繁に訪れていた時期だからだ。

ジョブズは当時、日本の工場のオートメーションに大きな興味を示しており、ソニーやキヤノンそしてアルプス電子などを訪れている。アルプス電子では工場見学の後、工場の人たち向けに講演を行い、「第五世代コンピューター」についての質問なども受けたという(その辺りの話はぜひ、私がまとめた追悼ムック「スティ-ブ・ジョブズは何を遺したのか パソコンを生み、進化させ、葬った男」を参照してほしい。このムックの一番最後のページでジョブズの最後の作品として紹介したキャンパスがついに完成と思うと少し感慨深い)。

いずれにせよ1982-3年と言えばジョブズが日本を訪れ、この国への愛を深めていた時期であり、ジョブズが愛していた禅にも通じる日本のシンプリズムや精巧さを感じさせる「セイコーシャリオ」と出会い、自ら購入した可能性はかなり高い。

今回の復刻は、この1982年の時計をかなり正確に甦らしたものだ。例えば「SEIKO」の文字の下に「QUARTZ」の文字が書かれているのも、いかにも1980年代っぽい。最近の時計では「QUARTZ」なのは当たり前すぎてわざわざ刻印しないからだ。ちなみにこのブログを書きながらWIkipediaで調べていたら1980年代はじめというのは、まさにQUARTZ時計が普及し始めた頃のようで、そういう意味では「最新テクノロジー大衆化の先取り」という意味でもジョブズっぽさに通じるところがあるのかもしれない。

今回、セイコーは、より今日のライフスタイルに合うように、ジョブズが身につけていたものより一回り大きいモデルも用意する。そしてナノ・ユニバースは盤面が黒いモデルを用意する。
どちらも限定品でジョブズが身につけていたのと同じモデルの「SCXP051」と一回り大きい「SCXP041」がオリジナルの発売年にあわせて1982本限定での復刻(セイコーの代理店で販売)、そして黒い新色モデルの「SCXP071」と「SCXP061」は300本の超限定品としてナノ・ユニバースのチャンネルから販売される。発売はジョブズの誕生日から少し遅れて3月10日の模様だ。

ジョブズが生きていたら今年で62歳。死の直前まで新本社建設の夢を語っていた彼はどんな感慨でこの年を迎えていたのだろう。

製品情報ページ: SCXP051
https://www.seiko-watch.co.jp/products/scxp051

この記事は個人日本語ブログ nobi_com: http://nobi.com/jp/entry-1247.html
個人英語ブログとのクロスポストです

コミュニケーションという幻想
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この記事は個人ブログのこちらの記事とのクロスポストです:

今年、東京都美術館で大規模な展覧会が行われるブリューゲルの「バベル」。バベルの塔の住人は神の怒りを買い、話す言葉がバラバラになり意思の疎通ができなくなってしまった、という。

文意は読み手の頭の中でつくられている

四半世紀近く物を書き、情報を発信する仕事を続けた自分がたどり着いたのは「コミュニケーション不信」だった。
少し文章長めくらいで、懇切丁寧に説明しても意図が伝わらないことが多い。
逆に誤解が生じないように簡潔に削ぎ落とした文章でも伝わらない相手には伝わらない。

ソーシャルメディア時代になり、読んだ人の感想を目にする機会が増えたことでつくづく思い知らされたのは、文章の意図と言うのは書き手以上に読み手の頭の中でつくられるという現実だ。

世の中の半分くらいの人は文章を読む時、<a href="http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/17522439.2015.1028972?journalCode=rpsy20">頭の中で声に変換して読むそうだ</a>(私もその1人だ)。


ここでは実験として、普段、そうしない人も、次の文章を頭の中で、好みの明るい性格の女優さん(友達でもいい)の声を想像して読んで見てほしい

「元気そうね」

ここで一度、スイッチを切り替えて、下のまったく同じ文章を常にどこかにシニカルな雰囲気の漂う声で読み直してほしい(誰も思い当たらない人は美川憲一さんや泉谷しげるさんあたりを想像してもらうといいかも知れない)。

「元気そうね」

 まったく同じ文字列が、読み手が明るいムードか暗いムード、頭の中でどっちの声で読んでいるかだけで、まったく印象が異なることが多い。
 このように文字によるコミュニケーション成功の鍵の半分以上は、書き手ではなく、読み手の手中にある。

 最近、文字だけでは伝わらない感情などを伝達する日本の携帯電話生まれの「絵文字」がMoMAの収蔵品になったが、何か象徴的なできごとのように感じた。

 だが、絵文字が完全な解決策ではない。
 
 よく知り信頼している相手による文章であれば自然と好意的な頭の声で読み好意的に受け止められるし、逆に疎んでいる相手、不信感を持っている相手が発した文章であれば、どこかネガティブなフィルターをかけて解釈してしまう。それが人間だと思う。

コミュニケーションのノイズ

 難しいのは文字によるコミュニケーションだけではない。

 声を使ったコミュニケーションにも難しさがあることを図で説明したい。

 米国の大学に通うと「Communication 101」という必須科目がある。今でも強く印象に残るのは意思伝達に潜む多くのノイズ/障害がいかに多いかの話だ。英語のWikipediaにも項目があるが「Communication Noise」には主に「心理的ノイズ」、「環境的ノイズ」、「物理的ノイズ」、「セマンティック(意味的な)ノイズ」があると言われている。

 簡単に図示をしてみても誰かの思いが相手に伝わるというのはもしかしたら奇跡なんじゃないかと思うくらいに障壁が多い。

 例え話者が非常に卓越した言語力を持っていたとしても、そもそも1つ1つの語に対して持つ印象「語感」は人によって差異があるものだし、メッセージの発信者と受信者の頭の中で同じイメージの複製が行われることは皆無といってもいいだろう。

 さて、上の図の多くは、文字によるコミュニケーションにも当てはまるものだが、私が特に致命的と思っているのが「そもそもの解釈の失敗」という部分だ。

 一卵性双生児でも、生まれた瞬間から異なる体験の蓄積が待っている。人々の価値観というものが体験の蓄積で醸成されるのだとしたら、価値観は一人一人皆、異なっているはずだ。

 そして価値観が異なれば、同じ物やアイディアに対しても、それをどのアングルから眺め、どう切り取って言語化するかの手法も異なる。
 同様にメッセージの受信者も、万が一、すべての障壁を乗り越えて「卓越した能力で言語化」したメッセージを間違いなく受信したとしても、それを解釈し、頭の中のイメージに落とし込むに当たっては、それまでの経験や知識の影響を大きく受ける。

 ずっと会話が成り立っていると思っていたのに「え!〜〜の話だったの?〜〜の話だと思っていた」というのはよくあるできごとだ。

 TwitterやFacebookなどへの書き込みに対しても、想像もしなかったアングルの脈絡のない返答がきて「この人はどういう思い、どんな認識で、この返信をしてきたのだろう」と悩むことも多い。

Web 2.0で何が変わったのか

 それでも20世紀のマスメディアは、多くの人にその意図を伝え、新しい文化を生み出すことも少なくなかった。これら旧来型マスメディアがうまくいっていた一因は、20世紀メディアの多くが受け手が自分の価値感にあうものを吟味してチューン・イン(選択)をする特性があったからではないか。

 視聴者や読者は、情報に触れる前に、ある程度、ふるい分けが行われていた。

 例えば同じiPodのレビューでも、ファッション誌なら形や色についてしか触れなくても「技術的考察が少ない」と怒る読者もいなかった(そもそも怒るような読者はファッション誌を買っていなかったり、ファッション誌を読む間だけは頭を切り替えていた)。逆に技術雑誌のレビューに見た目や触り心地を無視していると憤慨する人も少なかった。スポーツ新聞の記事を読んで「ふざけている」と憤慨する人もいなければ、特定のイデオロギーに基づいた本を買って自分のイデオロギーと違うと怒る人もあまりいなかったはずだ。

 テレビ番組も、ラジオ番組も、雑誌も、それぞれが世界観であったり共通の価値観を持っていて、門をくぐるという通過儀礼、つまりチャンネルを合わせたり、書店で購入した後は、読者もその価値体型の中で内容に触れていた。

 おそらくこれはインターネットが広まり始めてからもしばらくは同様で、ブログが広まり始めたくらいも同様だったかも知れない。

 変わったのは、「Web 2.0」というバズワードと共に、ソーシャルメディアが普及してからだと思う。

 「Web 2.0」で、それまでの読むだけだった人たちがコメント欄であったり、ソーシャルメディアで情報を発信する側になったことも大きいが、それ以上にソーシャルメディアの普及でコンテンツがバラバラに分解されたことの方が大きいように思う。

 人々は面白いニュースをTwitterやFacebookで発見し、トップページを素通りしていきなり目当ての記事に飛び、そのままトップページや他の記事を見向くこともなくTwitterやFacebookに戻っていく時代が始まった。
 デジタル技術が音楽アルバムを曲単位の販売に分解したように、Webニュースサイトというコンテンツは解体され、その中のコンテント、つまり個別のニュースが直接アクセスの対象になった。

 ソーシャルメディアの投稿やRSSフィードから、1クリック0円とわずか数秒の移動時間で、自分とまったく異なる価値観のコンテントにも首をつっこめてしまう。
 コンテントを価値観の合わない人たちとの接触からかくまっていた、コンテンツとしての世界観や価値観の壁が崩落した。

反論?ヘイト?

 Web 2.0の時代でも成熟し経験を積んだ受け手であれば、自分と合わないコンテントは「自分とは合わない」からと流して相手にすることはなかっただろう。

 一方で、日頃、多様な価値観に触れる機会を持たない人たちは、インターネットの自分にとって都合のいい情報、都合のいい価値観だけを引き寄せやすい特性で原理主義に走り、コンテンツのボーダーを越境して、自分と違う価値観叩きに走り始めている。
 さらにそのうち時間を持て余した人々は、わざわざコンテンツのボーダーを超えて、自分と意見が合わない人を探し出しては、そこにクビを突っ込んで嫌悪感を披露するという行為を繰り返している。

 こうした傾向は、特定の領域を偏愛するフェティッシュな人に多い。洋の東西を問わず、特定の領域を偏愛する人には、自分のその領域にかける情熱をその領域に対する知識の量であったり、自分の見立てで相手を論破することで示す人が多い(米国のコメディドラマ「ビッグバンセオリー」などで描写されている登場人物を見ても米国のオタクな人たちにもそうした性向があることがよくわかる)。

 もっとも、そうした違う価値観のマニアックな人たちが自分たちの見立てで何を語ろうとも、論評はその人の自由だし、「自分とは合わない」見方であればそれを流せば済むことなのだが、中には自分の嫌悪であったり憎悪をわざわざ伝えたくてしょうがなくてソーシャルメディア上などで執拗に、その人の価値観を送り続けてくる人がいる。
 これが前の記事でも書いた「over-connected(接続過多)」時代の弊害の一つだ。

 もちろん、こうした人たちはWeb 2.0時代の前にもいたと思う。
 私はどちらかというと、そうを広げるべく初心者向けに分かりやすい記事を書くことを重視している。一度、アップルの企業文化を、iPod以降でアップルに興味を持った人向けに新書でわかりやすく書いた本を出した。アップル界隈には昔からのマニアックなファンも多いので、そうした人たちが間違って購入してガッカリしないように「まえがき」で「この本は初心者向けで、古くからのアップルファンが新たに得る情報はあまりない」と正直に断りを入れて出版した。しかし、Amazonで真っ先に書かれた書評は「知っている内容ばかりだった」というマニアックなアップルファンのものだった。

 Web 2.0時代の今日、人は自分と価値観の合わないコンテントにもリンクをクリックして簡単にアクセスできれば、さらには自分と価値観の合わない人にも簡単にアクセスして自分のHATEを伝えることができ、中にはそうしたことに異様に執着している人もいる(例えばツイッターでは、自分の嫌いな個人であったり、企業を攻撃するためだけに、相手の名前をアカウント名につけているようなアカウントも存在する。どうせなら人生の時間を自分が好きなことのために費やせばいいのに、毎日毎日、わざわざ嫌いなもののために大量の時間を割く人たちだ)。
 そのおかげで、アナログ時代には目にする必要もなかったhateがより可視化されてしまったのが現在の情報発信の特性だ。
 もちろん、中には言葉遣いが汚いだけで、参考になる意見もあるので、悪いことばかりではない。

 ただ、ソーシャルメディア上では、中身もろくに読まずに、ただいいがかりをつけているだけのような書き込みも多い。
 こんな時代に情報発信をする人は、何を言われても気にしないタフなハートを持つか、ただのいいがかりを言ってくる人たちを「この人たちは何でこんな風になってしまったんだろう」と同情して受け流す度量が必要だ(実際、多様な人と接する機会に恵まれていない可能性が大きい)。
 そもそも言いがかりをつけたいだけの相手は、相手にするとさらに言いがかりの量が増え、しかも、その人のhateを不要に拡散して周りの人たちにも嫌な思いをさせることになるので「無視」がいちばんの得策だ。ただし、中には言葉は汚いが、本質をついた参考になる意見を言う人もいる。両者は、いったいどうしたら見分けられるのか。
 例えばツイッターでのネガティブ意見であれば、1つ有効な手段は、その人のアカウントのページを開き、普段、どんなことをツイートしているのかを、少し遡って見てみることだ。
 無視してもいいような言いがかりの相手は、1日の大半のツイートが誰かへのいいがかりになっている。こう言う人は相手にしてもラチがあかない。
 一方、建設的な意見やポジティブな意見も言っている人であれば、その人の意見は今後の自分の参考になることがある。誠実に応えてみると、そこから得るものがさらに大きいかも知れない。

情報の大量生産、大量消費、大量廃棄

「反論」には慣れで対処できる部分も大きい。
 だが、それ以上に「書いて情報を発信する」行為を無益に感じさせるのは、今日の情報の消費行動のあり方だ。
 ソーシャルメディア全盛になる少し前の2006年に総務省が面白い統計を発表した(2006年はTwitterが米国で誕生したものの、まだ一般にはほとんど知られていなかった年。iPhone登場の前の年)。
 Windows 95が登場し、インターネットが一般に向け普及し始めた1995年から2006年までの11年の間に、我々が1日に触れる情報の量が637倍に増えたと言う。

 残念ながらこの統計はその後、アップデートされていないが、この後にソーシャルメディアが登場したことで、情報量が指数関数的に増えたことは火を見ることよりも明らかだ。

 人間の脳の情報処理能力が劇的に向上するとは思えない。つまり、20世紀、情報に飢え、目的の情報のために図書館に足を運んだり、高いお金を払っていた我々は、今日では常に多くの情報と対峙し短時間で取捨選択を行ない。大量の情報を捨てて、獲得することを決めた情報も短時間で消費してしまっているのではないだろうか。
 自分の実感でも、20世紀には「人の噂も七十五日」と言われたが、現在のソーシTwitter上の噂は持ったとして半日という印象がある(もっとも、メディアによって情報の滞空時間には違いがあり、基本的に情報の投稿頻度に反比例している。Twitterは他のソーシャルメディアと比べても圧倒的に情報の消費が早いリアルタイムメディアだ)。
 情報がこれだけ大量に生産され、廃棄されているにも関わらず、商業メディアも、個人メディアも「PV(ページビュー)」という指標を追うあまり、今なお頻繁な更新に力を注ぎ、情報を増やす方ばかりに力を入れ、インターネット上では複製とノイズばかりが蔓延し、本当に人々の視点を変え、人生に影響を与えるような価値を持つ情報はどんどん少なくなってきている。
 今、こんなインターネットに骨を折って情報を投入することは、渾身の作品を見渡す限りのゴミが積まれたゴミ処理場に投げ入れるようなものだ。

 もちろん、そうは言っても、これまでの積み上げで、その作品を他の方のそれよりは少し目立たせるための道筋を持っている。
 そして、たまにちゃんと価値観を共有できる人からの嬉しい言葉がもらえるからこそ、なんとか頑張る気にもなれる。ただ、賛同してくれていても的外れなものは「コミュニケーションへの失望」を増長させるし、的外れなhateは徒労感を強く感じさせる。
 執筆による情報発信は、かなり割りの合わない仕事にしか思えない。

NEXT INTERNETに期待!?

 1つ希望を感じるのは、今、インターネットが大きな曲がり角を迎えていること。
 「インターネットの次」がそこかしこで話題になり始め、BREXITやトランプのようなネットの民意を反映しない現実の台頭も度々、目の当たりにする。
 インターネットが今のままでは成長を続けられない、と思うほころびがそこかしこに見える。

 「止めどのない情報増産」と「OVER CONNECTED(接続過多)」の限界の先に、どんな「NEXT INTERNET」が誕生するのかは、まだまだ計り知れない。だが、もし、本当にそうしたものが登場するのであれば「どこかに人間そのものを成長させるしくみ」を盛り込んで欲しいと思う。

 今のインターネットはその逆で、資本主義の原則で成長して、人々を安易な方向に流し、世のメディアを総スポーツ新聞化する方向に進化してしまった。

 「NEXT INTERNET」は資本主義の原理原則に一度、目を閉じ、より大きな大義を基盤に作っていく必要があるのではなかろうか…

10周年のiPhone、世界をどう変えたのか
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この記事はブログnobi.comとのクロス投稿です。

あれから10年

10年前、スティーブ・ジョブズが初代iPhoneを発表した。幸運にも私は現地で取材をしていたが、当時、ラスベガスで開催されていたConsumer Electronics Show(CES)に最新携帯電話を取材に行っていた人は歯がゆい思いをしたはずだ。米国のTVニュースのレポーターが伝えた次の言葉がその様子をよく表している。「CES 2007の最大のニュースはこのイベントに出展すらしていない会社からやってきた。」

この日、MACWORLD EXPOの基調講演に登壇したスティーブ・ジョブズは「アップルは電話を再発明する」と宣言した。それから数年後に我々は彼らが電話だけでなくデジタル機器の生態系のすべてを再発明してしまったことに気づかされる。その変化はあまりに大きかった。5年後、アップルが世界で最も価値のある企業になったが、多くの人はそれを当然と受け止めたことだろう。

私はiPhone発表2週間後の2007年1月25日、ascii.jpに「iPhoneは大きな森を生み出す「最初の木」」という3部からなる記事を書いたが、このタイトルはこの10年で起きたことをよく言い表していたと思う。ただ、当時の私には、こんなに大きな森であることは想像もついていなかった。

伝説の発表から10年が経った。今日、我々が当たり前のこととして見過ごしてしまっている多くのことが、この伝説の発表なくしては成り立たなかった。そこでそうしたことのいくつかを私なりの視点でまとめてみたい。
まずはわかりやすい事柄から。

もし、iPhoneが無ければ

もし、iPhoneが無ければ:

・アングリーバードやパズドラ、InstagramやEvernote、LINE、WhatsAppそしてその他200万本近いアプリはこの世に存在していなかった。
・Uber、SnapchatやRoviといった我々が今日よく耳にする企業もこの世に存在していなかった
・人気アプリ周辺のビジネス。例えばアングリーバードの映画やLINEのクリエイターズマーケット、LINEのキャラクターショップなんかも存在しなかった
・今や世界的になりMoMAにも収蔵された絵文字もここまで世界規模に受け入れられることはなかった
・Objective-CやSwiftでのプログラミングがここまで一般的になることもなかった
・AndroidベースのスマートフォンはiPhoneの有無に関わらず登場しただろう。ただし、もう少しかつてのWindows Mobileスマートフォンに似た性格のものになっていただろう(例えばハードウェアキーボードやスタイラスが標準になっていただろう)

リストは、まだまだいくらでも書くことができるし、人によっても違った視点のリストができあがることだろう。

iPhoneは登場するや大成功し、一年後にApp Storeが登場したことで「アプリ経済(App Economy)」が誕生した。これによりiPhoneはアプリを切り替えるだけで色々な用途に使える万能製品へと進化を遂げ、デジタルカメラを筆頭に我々の日常の道具の多くを吸収してしまった。
下の動画は銀座グラフィックギャラリーで開催された「NOSIGNER:かたちと理由」展のインスタレーションを撮影したものだ。この作品でNOSIGNERはiPhoneというデバイスに集約された機器を実際のオブジェクトを並べて示して見せた。

Real life infographic by NOSIGNER

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デジタル・デバイド

iPhoneがもたらした明らかな変化の話はこの辺りで一度、終わりにして、ここからは、もう少し本質的な変化に着目してみたい。

まず1つ目は「デジタルデバイド」。iPhoneが登場する前、テクノロジー業界の人が心配していたのが「デジタルデバイド」の進行だ。Windows 95やiMacが登場してインターネットが普及する中、世の中に深刻な格差が生まれ始めていた。インターネットを持つ者と、持たない者の格差、「デジタルデバイド」だ。持つ者はインターネットでリアルタイムに世界のニュースを獲得し、あらゆる情報を検索し始めていたが、持たない者はどんどん取り残されて行く心配があった。
しかし、iPadが登場した2010年頃に気がついたのだが、その頃にはこの言葉がすっかり死語になってしまっていた。操作も簡単だし、インターネット接続のためのコストが圧倒的に安いスマートデバイスが、状況を一変させたのだ。もちろん、iPhoneが実質0円で提供されていた日本を除けば、この点に関しては、より大きな貢献をしたのは廉価なアンドロイド機器だろう。だが、それまでのパソコンを使ったインターネット接続では、パソコン本体に加え、ルーターやISDN・光ファイバーの敷設工事、さらにはISPとの契約などコスト負担だけでなく、手順的にも煩雑でインターネットを使い始めるまでの敷居が高かった。インターネット所有コストの低さで言えば、やや高価だったiPhoneでも、それまでのパソコンを使ったインターネット所有と比べて安くなっているはずだ。
スマートデバイスの普及以後、インターネット人口は年間、数千万人ペースで増えている。そして、そのほとんどはパソコンではなく、スマートデバイスを使ってインターネットデビューを飾っている。

実は「デジタルデバイド」は無くなったのではなく、逆転したのだという見方もある。これもiPadが登場した2010年頃に気がついたことなのだが、既にパソコンによるインターネット革命の恩恵を受けていたホワイトカラーの人たちはスマートデバイスの登場による進歩のレベルが小さいのだ。確かに外出先から社内ネットワークの情報を引き出してビジネスの機動性を高める、といった変化は起きたがその程度だ。
これに対して、パソコンによるインターネット革命の恩恵を受けていなかった層は、その分、大きな跳躍を見せている。例えば一次産業(農林水産業)、観光業、教育、ファッション、医療などはその代表例だろう。これらの業界がスマートフォン、タブレットを手にしたことで起きた変化と比べれば、ホワイトカラーワーカーに起きた変化はパソコンを使った革命の延長線から脱しておらず、「デジタルデバイド」は実は逆転してしまったという印象を与える。

インターネットとの接し方

スマートデバイス、特にiPhoneは我々のインターネットとの接し方も大きく変えた。
iPhone登場前、我々の多くは「検索窓」こそがインターネットの究極の入り口だろうと信じていた。しかし、今日の我々の生活を噛み砕いてみると、アプリこそがインターネットの入り口になっている人が多い。さらに我々は(人によってペースは違うが)徐々に音声操作の時代へと移行を始めている。音声操作はスマートフォンがこれから向かう重要な方向性の1つであり、状況によっては、これまでのタッチ操作よりも圧倒的に効率がいい。例えば「Hey SIri、妻に「今、帰宅中」とメッセージを送って」と言えば済むのと同じことをタッチ操作でやると一体何ステップかかるのか数えてみると、その効率の良さがわかることだろう)。

インターネットとの接し方と言えばもう1つ。ソーシャルメディアとの接し方にも大きな変化が現れた。
実はTwitterの登場はiPhoneとほぼ同時期(Twitterの方が一年ほど早い)。初代iPhoneにはApp Storeがなく他社製アプリも使えなかったので、多くの人がモバツイなどのWebベースのTwitterクライアントを使って利用していた(モバツイは昨年末、約10年の歴史に幕を閉じた)。その前に従来型の多機能携帯電話からツイッターを利用している人もいたが(私もその1人だった)、iPhoneの普及で屋外からのツイートは飛躍的に伸びた。それ以前のツイッターはパソコンを使って屋内から発信されるツイートがほとんどで、写真もついていなかったが、Twitter社の公式アプリが出る頃までにはTwitterのタイムラインはリアルな社会のただ中から投稿されたツイートが溢れ始めていた。2009年のイランの大統領選やアラブの春、ハドソン川の奇跡、東日本大震災といった大きなできごとがある度にスマートフォンとTwitterそしてリアル社会との結びつきは強固なものになっていった。

次の10年に向けて

もちろん、すべての変化がポジティブなものではない。ソーシャルメディアに起きた変化も最初のうちはポジティブな効果が大きかったが、この数年は「揺り戻し」の方が大きくなり始めている。気がつけば我々は「接続過多」の社会の中で徐々に窮屈さの方が増してきていたのだ。
忘れられる権利がしくみとして内包されているSnapchatなどに代表される揮発性メディア(しばらくすると情報が消えるメディア)もそうした反動の事例の1つだろう。
さらに近年では、ソーシャルメディアの議論と現実の乖離も大きな問題になってきている(こと日本に関して言えば、そもそも最初から接近すらしていないという見方もあるが…)。この問題が大きな形で顕在化したのが昨年のBREXITとアメリカ大統領選だろう。

マーシャル・マクルーハンの有名な言葉に「まずは我々が道具を作り、やがて道具が我々を作り始める」というのがある。
我々の10年前のiPhone登場後、劇的に変わった。「揺り戻し」の勢いが増している今こそ我々は一度、立ち止まってこの10年を振り返り、次の10年に向けての軌道修正をかけるべきなのかもしれない。

夕陽に集う人々
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六本木ヒルズの屋上、スカイデッキ。ここはおそらくら東京で一番きれいな夕陽が楽しめる場所。天気がいい日になるとiPhoneのSiriに「今日の日没は?」と時刻を聞き、その30分くらい前の到達を目指してやってくる。
1年ほど前までは、広い屋上をたった7-8人で占拠、ということも多かったけど、最近、急に人が増えてきた。しかも、どこかの海外のサイトで紹介されたのだろう。ほとんどは海外からの旅行客だ。
陽がだんだんと落ちていくにつれて皆、言葉が少なくなってたまにシャッター音だけが響く状態に。そして夕陽が雲や地平線に沈む瞬間にはいつもちょっとだけ歓声があがる。
晴れてる日は毎日繰り返される光景だけれど一日として同じ夕陽はない。
それがなんか好きで、私も結構、頻繁に来ているが、今日たまたま目の前に知り合いが座っているのを発見。実は彼もここが好きで多い時は2日に1回のペースで来ている、と聞いて驚いた(でも、私も週に3回ということあったので、同じようなものか)。
東京の喧騒の中で、もっとも壮大で静かなショーが楽しめる素敵な場所なんだけれど、残念ながら今はスターウォーズ展の関係で夕陽が沈んだ直後、余韻を楽しむまもなく けたたましい大音響でスターウォーズの音楽が流れる。
せっかくのステキさを台無しにされたくなければ、陽が沈んだら、すぐさま森美術館の「シンプルなかたち展」に逃げ込むのがオススメ!
特に 一気に大巻伸嗣の作品「リミナル エアー スペースタイム」まで行けば、夕陽に負けないステキな気分に酔い続けることができる。

がら空きのGWを愉しむ
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せっかくのゴールデンウィーク。
なのに旅行の計画は立て損ねてずっと東京。
混んでるとこへ出かけて人混みだけ見て帰ってくるのはちょっと嫌。
だけど、どうせなら非日常感じられるステキな場所に行きたい…
そんな、わがままが通るのかと思いつつも、勘に任せて出掛けたら、勘が冴えまくっていたのか、訪問先3箇所すべてがらがらとは言わないまでも、少なくとも何をするにも行列は無し、人混みは無しで快適!(3カ所とも、できたばかり、リニューアルしたばかりの話題のスポットなのに!)

何か派手な達成感あるアトラクション目指してる人には向かないけど、休日、ゆったりとステキな時間を過ごしたい人には、電車でちょっと行きにくい場所、ビジネス街周辺はGWの狙い目かも!
最近、車の人減ったのか道路も空いてるので車での移動がオススメ!(ついでに、飲まないけど運転できる人と一緒ならなお良し ;-) )

天王洲アイル TY HARBOR

天王洲アイル TY HARBOR

天王洲アイル SLOW HOUSE

虎ノ門ヒルズ前のカフェ

虎ノ門ヒルズ

虎ノ門ヒルズ

Andaz hotel, 虎ノ門ヒルズ

COREDO室町

COREDO室町

マンダリンオリエンタル

「蔦屋家電」は新しい販売スタイルを確立できるか?
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蔦屋家電の入り口

今日、二子玉川駅直結のライズショッピングセンターに「蔦屋家電」がオープンした。「生活提案業」を標榜するTSUTAYAによる新業態ストアだ。
 家電製品の購入場所といえば、いつの間にか「家電量販店」が幅を利かせてしまった今日この頃。質よりも価格と取り扱い製品の量、在庫の量で勝負をし、色気のない蛍光灯の下で各社の類似製品が横並びに陳列され、その上にドギツイ赤や青の文字で「安売り!!」や「ポイント還元!!」といった札が貼られた展示、隙間無くビッチリと商品が詰め込まれた棚では色気のある家電製品は生き残ることができない。結果、日本の家電メーカーでは、そうした場所でも売れる商品ばかりを手がけるようになり、消費者も家電を機能と価格だけで選ぶ人が増えてしまった。
 これが「量販店」流だとしたら「蔦屋家電」が作ろうとしているのは「質販店」の文化だと感じた。

蔦屋家電2階のイベントスペース

茶プレッソと一緒に並べられているのは八女茶のボトルと鉄瓶そしてお茶の本

GOOD MEAL SHOPにはステキなクラフトビールのセレクションが

 例えば調理関係のイベントが行われる2階のイベントスペースの目の前の通路には、国内外の調理関係の本が並べられている。そこから通路の反対側に渡ると、右側にはクラフトビールのセレクションが充実した「GOOD MEAL SHOP二子玉川店」。ここのビールを買ってイベントに参加することも可能だそうだ。一方、左側には調理家電のコーナーがあり、「茶プレッソ」のマシンの周りには、一瞬、「これワイン?」と間違えるような八女のボトル入り茶などが売られている。
 二子玉川の蔦屋家電は、代官山Tサイトと同じ2フロア構成で、床面積は代官山3棟をひとまわり上回るサイズ。2階にはきれいに円弧を描いた全長100mの広々とした通路があり、そこを歩いて行くと、最初はインテリア街にいたと思ったら、いつの間にか食の街に変わっていたり、美容と健康の街、安眠やリラックス、お掃除の街へと景色が変わっていく。
 そしてそれぞれの街には、それに関連する家電と本そして装飾のオブジェが飾られていて、実は街と街の境目もつなぎめがどこなのかわからないようにうまくつなげられている。
 この店のデザインで、TSUTAYAがこだわったことの1つが「シームレス」なのだそうだ。
 気になっていた美容家電を見ている時に、気になる美容本を見つけて、そこから美容食の魅力に気づいて、食べ物を買って帰る、みたいなセレンディピティがいっぱい起きそうなデザインになっている。
 冒頭で家電量販店の展示の仕方の問題を指摘したが、それ以外にもう1つある。これは量販店だけでなく、雑誌媒体などのメディアもそうなのだが、日本のお店やメディアは、何か商品を陳列する時に必ず「〜〜〜系」と言ったレッテルを貼りたがる。
 私もまだ雑誌でレビュー記事を書いていた時は「いや、これは、これまでにないジャンルの新製品で、下手にそのレッテルを貼ってしまうと、新たに提案しようとしているスタイルに読者が気づかない。製品利用イメージを固定化してしまうのでよくないんじゃないか」と言っても、やはり、メディアはどうしても昔からの慣習で「伝わりやすさ」優先でレッテルを貼りたがる。実際には「イノベーション」の本来の意味は「新結合」、イノベーティブな商品というのは、本来、どこにもカテゴライズされないのが当たり前、であるにも関わらずだ。
 しかし、「蔦屋家電」の「シームレス」な売り方なら、こうした商品が自然に「居場所」を見つけることができる。
 実は、これまでのレッテル展示のせいで、世の中に存在を知られにくかった商品も結構あると思う。例えば「ロボット掃除機があるなら、ロボット芝刈り機もあればいいのに」と思っていたことがあるが、蔦屋家電では普通にグリーン(観葉植物のコーナーの近くに)飾られていた。
 音楽CDからiPhoneに直接音楽を取り込めればいいのに、と思っていたこともあるが、そうした商品も既にあって、1階のスマートフォン関連のコーナーと音楽コーナーの間くらいに展示されていた(ちなみにIOデーター製の製品だが、それとは別に蔦屋家電オリジナル商品として、しっかりとかっこいい見た目の「 T Air」という商品が6月から発売されるようだ)。
 もちろん、買うものが既に決まっていてそれを探す、というのであれば従来の「家電量販店」の方が見つけやすだろうし、さらにいえばAmazonなどのECサイトの方が見つけやすいだろう。

蔦屋家電オリジナル商品のT Air。iPhoneに音楽CDを直接取り込める。同様の製品は既に他者から出ていたが、シンプルモダンなデザインがステキ

グリーン売り場の近くには芝刈りロボット

 「蔦屋家電」の価値は、むしろ、あの魅力的な空間で迷子になるくらいに散策して、新しい出会いを生み出すことにこそあるんじゃないかと思う(だからこそ、歩いていてワクワクするし、それまで興味がなかったジャンルへの興味も創出されるのだ)。
 デジタルライフスタイル時代のショップということで、スマートフォンやパソコン、デジタルカメラなども売っているのだが、その品揃えも面白く、取り扱っているスマートフォンはiPhoneだけ。パソコンは、一応、Macも含め数機種を置いているが、一番、広く面積を取って飾られているのはSurface Pro 3。デジタルカメラも、全部の種類を抜けなく揃えるのではなく、あえて特徴のある機種をセレクトしてきれいに飾っている。自転車の販売も、なんと電動機付き自転車だけに絞っている(二子玉川のある世田谷区は坂が多いから)。
 「お、これなんだろう?」と思わせる楽しさと、細かくスペックシートを見比べる作業を億劫に感じる人は、TSUTAYAのコンシェルジュのセレクションを信じ他の商品を知らなくても「とりあえず、これを買っておけば間違いない」という安心感を持って商品を買うことができる。

良いデザインの製品はショーケースに入れて展示

他ではあまり見かけない面白い商品がいっぱい。実は海外のクラウドファンディングで生み出された商品なども多いのだという。

 ちなみにオープン前内覧会の説明で5分近くを、お店のスタッフ紹介に費やしたほど、人選にはこだわっているようで、セレクトショップや家電量販店の有能なスタッフをかなり引き抜いた模様。スマートフォンコーナーに行くと、スマートフォン界隈ではそれなりの有名人が数名普通に店員として働いていてビックリさせられた。
 他にも修理カウンターの目の前がスターバックスとファミマで、ゆったりとしたラウンジでスマホを充電しながら、修理が終わるのを待てたりと、これまでになかった工夫がいっぱい。
 「蔦屋家電」の提案、消費者にも伝わって欲しいが、ぜひ、他の家電販売店にも広がっていって欲しいと思う。

時を忘れて没入できる石田尚志展「渦巻く光」
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"Billowing Light: Ishida Takakashi" Yokohama Museum of Art

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 じっくりと作品を観察して作家がどんな技を使ったのか、どんなことを考えていたのかを考える美術展もいいけれど、気がつくと意識が作品の中へと飛んでいて、無意識がすべてになっているーーそんな美術展が好きだ。入った瞬間に非日常の別世界、別次元へと連れ込まれて、無意識なまま放浪している感じ。どうも私がそういう感覚に陥るのは時間を扱った作品が多いみたい。描くプロセスそのものをストップモーションで映像化した作品が多い(それでいてリズミカルな)石田尚志さんの初の大規模回顧展は、まさにそうした異次元への旅をさせてくれた久々の美術展。気がつくと無意識が自分のすべてになっていて放心状態、半瞑想で30点ほどの作品で構成された4つの世界を2〜3巡は回っていた。
 作品作りはじめて30年になる石田さんだが、本展ではその作品を時系列に並べるのではなく、彼の作品がよく扱ってきた4つのテーマ「絵巻」、「音楽」、「身体」、「部屋と窓」の4章で構成されていて、それぞれの世界の中で30年の活動を一気に振り返ることで彼が、ここれら4テーマを継続的に扱ってきたことを見せている。
  美術館のエントランスには石田さんが横浜美術館で4ヶ月間にわたって滞在製作した作品「海の壁ー生成する庭」が飾られている。本作は昨年から横浜美術館の推薦作品としてシンガポールで展示をされ海外のメディアからも高い評価を受けた。
その作品がシンガポールから海を渡って横浜港からこの美術館に戻り、本展覧会の後は沖縄に巡回をする、と言う。沖縄は石田さんがアーティストになる決意をし高校を中退した後に渡った土地で、本作が横浜で誕生し、シンガポールで脚光を浴び、再び横浜から那覇港を通して自らの出発地点へと旅立つことへの感慨を語っていた。
 

Google Impact Challenge、日本から世界を変える10の団体が最終プレゼンテーション
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Google Impact Challenge Japan, Final Presentation

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世界を変えるスピードをはやくするGoogle Impact Challengeの
最終プレゼンテーションと選考会の様子です。

昨日、丸ビルでGoogle Impact Challengeファイナリスト10組による最終の1分プレゼンテーションと審査の結果発表がありました。それがあまりにも素晴らしく、取材しながらうるうるしてしまう場面もいくつか。これはシェアしないわけにはいかないとビデオを編集しました。
どの団体も我々が注視すべき非常に重要な課題を取り上げているので、それを知るだけでも価値があると思います。

ファイナリストの1分間のプレゼンの後、実際には質疑応答が有り、10団体とも非常に入念な調査と、長期にわたる活動実績があることがわかる(例えばホームレスの人の8割は警備関連の仕事を経験している、といった)やりとりがありました(が、全部ビデオ化すると2時間を超えるのでダイジェストでお届けします)
Google Impact Challengeの公式ページはこちらです:
https://impactchallenge.withgoogle.com/japan

3Dプリンター/ものづくり系の人必見!PLAYFUL展は日曜まで!
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PLAYFUL

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東京大学駒場キャンパス2にある生産技術研究所、山中俊治さんの研究室によるプロトタイプ展がスタートしました。開催期間は29日(日曜日)まで。これ、3Dプリンターなどを使った新時代のものづくりを始めている企業の方々、個人の方々、必見です。
パナソニックの研究者の方がしばらく山中研究室に滞在してつくった質感ややわらかさの異なる立方体や、ナイロン素材を3Dプリンティングしてつくった折り畳める(ソガメ折り)一体造形物など、見所、満載です! 木曜日にはイベントもあります。詳しくはこちら:

http://www.design-lab.iis.u-tokyo.ac.jp/exhibition/proto2015/

正式発表のApple Watch試着動画、各種設定も簡単そうです! #AppleWatch
News

昨年、9月9日につづいて、Apple Watch、2度目の試着を行ってきました。
今回は画面も日本語。
せっかくなので、いろいろなグランスの切り替えや設定変更なども試してきました。

なんとも直感的操作でよくまとまっています。

早くMy Apple Watchをつけるのが今から楽しみ!

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